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富士宮囃子 のバックアップ差分(No.4)
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  // author:1
  // author_ucd:dwTRnaO1fHLs	admin
  **富士宮囃子 [#l97a4441]
  #ref(kantou.jpg,left,around,80%)
  古くより秋まつりに山車や屋台の上で囃される祭り囃子。~
  昭和41年に富士宮市無形文化財に指定され、~
  平成7年に静岡県無形民俗文化財に指定されました。
  
  関連-富士宮囃子保存会
  #clear
  *** [#med9f6fb]
  ***曲目 [#med9f6fb]
  道囃子  歩行時の囃子の総称と言われています。
  
   ・篭丸 (篭毬とも)これを道囃子と呼ぶことも多い。
  #ref(michi.mid,left)
  
   ・宮参り
  
   ・通り囃子
  
  山車囃子 山車上で囃される
  
   ・にくずし 山車の行進曲と言われ、引き回しの際に囃されます。
  #ref(Niku.mid,left)
  
   ・やたい  進路をかけて囃子で競り合う際に囃されます。
  #ref(yatai.mid,left)
  
  屋台囃子
  
  ***起源 [#z98f8a0f]
  富士宮囃子の起源は資料では江戸時代末期まで遡ることが出来、万延元年の袖日記には「ダシ」「屋臺」などの記述が見られます。~
  この年は60年に一度の浅間大社のご縁年ということもあり、いつにもまして盛大な余興などが行われたと推測されます。
  
  明治初期に入植した万野士族によってもたらされたという説。~
  厳しさに耐えかね数年の内にほとんどが万野原新田を離れたと言われていますが、しかし近隣の商業地に移り住み有賀氏の記述にあるように、屋台を引き回して囃子を奏し、これを伝えたという事も考えられ、たしかに明治中期にはいくつかの地域で祭りが行われていたらしく、写真もいくつか残されています。
  
  爆発的な祭り実施の拡大は明治末期にお祭り青年が組織された事が引き金になったものらしく、明治 44年には山車新造や中古山車購入、他地区から屋台を借用しての祭り実施などが行われました。ある町内では根古屋から囃子方を招聘して習い、ある町内では根方街道沿いの町まで囃子を習いに行ったという話が伝わっています。具体的な伝来経路が示されているのはこの頃が初めてです。
  
  大正から昭和初期にかけて蚕糸産業の発展から町は拡大し、新たな町内が次々に独立しています。芸妓置屋も県下最多を誇り、芸妓の祭り参加などにより新たに三味線を入れた曲が加わったのもこの頃。
  
  町内によっては、比奈から習ったなど独自に他地域と接触を持ち、新たに祭りや囃子を始めたというところもありました。
  
  乏しい資料から考察すると現状の「富士宮囃子」の演目は入ってきた年代も元の囃子を伝えた地域もさまざまで、また大宮町の発展期に競って新たな囃子を取り入れて現在の形になったもののようです。~
  囃子の奏法は大まかに川西型、川東型の2種類に大別できますが、祭りの衰退、復興などで伝承が途切れた地域もあったり、他町の囃子の良いところを取り入れるなど囃子の奏法などに若干の変化も見られます。~
  祭りも囃子も生き物のようにその時代の環境に合わせ少しずつ変わって行く物のようです。
  
  ***親名(湧玉と磐穂) [#zb3c9af1]
  #ref(wakutama.jpg,right,around)
  今も多くの町内が町名の上に親名を冠して名乗っていますが、この親名はその祭りが引き継いできた囃子のルーツを表しているもののようです。
  
   元々神田川を境に東は韮山代官直轄の天領であり、西は浅間神社の社領でした。明治23年発行の地図にも大宮町、大宮西町と分けて記載されているように川を境に気風の違う二つの町でした。明治期の実施組織は東に「磐穂」西に「湧玉」しかなく、それぞれが行う祭りもその囃子の奏法も差違がありました。
  
   産業振興などにより町勢が充実し、祭り実施態勢が整うと独立する際に「湧玉」の囃子を継承していると言った意味合いでそれぞれの町名に親名を冠したと言われています。
  
  
  ※右写真は大正14年に撮影されたものですが、襟に「湧玉はやし御幸」と書かれているのは湧玉の囃子を伝えている「御幸」という祭り組であることを示しています。
  
  御幸=社人町(現宮本内)と福住町(現松山内)合同時代の祭り組名
  
  #clear
  ***関連サイト [#v47f0a14]
  [[富士宮囃子と秋祭り>http://www.ohayashi.jp/]]
  

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